この記事に「助けて!夫(妻)が出て行ってしまう」という題をつけようかとも思いましたが、「その離るるに任せよ」の方が、私が分かち合いたい聖書的な原則に焦点を当てられると考えました。
配偶者が離婚を望んだとき、私が何をすべきか、はっきりした聖書的な原則を持っていたらと思います。もちろん、当時の私のクリスチャンとしての歩みでは、ただ神に助けを求めて叫ぶことしか知りませんでした。しかし私は、離婚についての本を読むことにも多くの時間を費やしました。どの本も違う助言をしているようで、そのほとんどはあまり役に立ちませんでした。この記事では、離婚の過程を通して学んだいくつかの単純な聖書的助言を分かち合いたいと思います。要するに、もし私がもう一度離婚を経験するとしたら、こうするだろうということです。このサイトのすべての記事と同じく、私はただ、あなたが「わが言ふ所をおもへ、主なんぢに凡ての事に就きて悟を賜はん」(テモテ第二2:7)ことを祈るのみです。
これは私にとって非常に難しい原則でした。配偶者が去ろうとしていたので、少なくとも財産の半分は自分が受け取るのが公平だと思いました—つまり、私はすでに割の悪い側に立たされていたのだから、何か慰めがあってもいいはずだ、と。しかし聖書は何と言っているでしょうか。
ですから、すべてを公平に分けようと配偶者と争った末、私はむしろすべてを彼女に渡すことに決めました。私たちの目標は常に「善をもて惡に勝つ」ことであり(ロマ12:21)、「かくするは熱き火を彼の頭に積む」ことです(ロマ12:20)。ああ、手放すことがどれほど気持ちよかったことか。あなたとイエスとの間に、新しい人生の時が来たのです。それらの財産のどれも、あなたを幸せにはしません。むしろ悪い記憶をもたらすだけです。
この点については多くの人が私に反対するだろうと確信していますが、これは私自身の命令ではなく、主の命令です(コリント第一14:37)。もしあなたの配偶者が信者であるなら、これらの問題は教会の外の弁護士ではなく、教会の長老たちによって扱われるべきです。配偶者が望むものを持たせ、去らせることで、多くの問題を避けられます。私の場合、すでに弁護士に相談し始めていたとき、ある長老がこの件について私に助言してくれました。その時、私は弁護士に、離婚に同意しないと伝え、長老が妻と話す機会を設けました。聖書は確かに「その離るるに任せよ」と言いますが、同時に「人これを離すべからず」とも言っています(マタイ19:6)。実際には、これは平和を保つために彼らが去ることを許すべきだという意味ですが、離婚に自ら進んで同意すべきだとは信じられません。もし彼らが離婚を望むなら、国の法律に従って離婚することはできますが、私の祝福があるわけではありません。私は離婚の手続きの中で、自分は離婚に反対しており、同意しないと明確に記してもらいました。これは、配偶者が実質的に無責のまま離婚を求めることができ、私には法的な手段がないことを意味しました。しかし「見ゆる所によらず、信仰によりて歩めば」(コリント第二5:7)よいのです。つまり、私たちは自分の状況に基づいて何が最善の行動かを考えるのではなく、神がみことばを通して望まれることに基づいて決断しなければならないということです。
しかしあなたは「このひどい状況の中で、どうやって感謝できるのか」と尋ねるでしょう。私に言えるのは、この状況は主から来ているということだけです。私たちが主のために苦しむことは、主の望みです。
これはヨブ記のメッセージそのものではないでしょうか。義人が苦しむのはなぜでしょうか。私たちは神の栄光のために造られたのではないでしょうか(イザヤ43:7)。神は、私たちの信仰が精錬されるように、御子たちが苦しむことを許されるのです。
親愛なる読者よ、主はあなたに必要なものをご存じないでしょうか。聖書は「憂へざるを得ずとも」と言っています。もし今あなたが苦しんでいるなら、それはあなたの信仰を精錬するために必要なことだからです。神が私たちのうちで、罪深く肉的なものを取り除く手術をしてくださっていることを、私たちは感謝できないでしょうか。私たちは感謝しなければなりません。それは神が私たちに求めておられることです。私たちは神の栄光のために造られているのです。
もしあなたが今、離婚を経験しているなら、悪の中にある善を見ることができるよう願い、祈ります。私が学んだように、あなたも「私の離婚は、私に起こった最善のことだった」と言えるようになることを願います。それは私をキリストへと導いた道でした。